大八木弘明の若い頃(現役時代)は小顔イケメン!箱根では2回区間賞!

常勝駒澤大学の陸上競技部を築き上げた大八木弘明さんの若い頃ですが、中学入当初は100㎏近くあり、ドラムカンと言うあだ名だったそうですが、その後中学2年時に校内マラソン大会で優勝したのがきっかけで、本格的に陸上を始めてすぐの全国大会で5位になります。

高校時代は怪我に苦しみ思うような結果が残せませんでした。

その後、小学校の用務員をしながら、24歳で駒澤大学の2部に進学し、箱根駅伝で2回区間賞を獲得されます。

大学卒業後は、実業団のヤクルトに入り、指導者として順調にキャリアを進めますが、36歳で駒澤大学陸上競技部に母校の再建を託され、駒澤大学陸上部のコーチに就任します。

  • 中学・高校時代の経歴
  • 小森印刷勤務時代の経歴
  • 小学校の用務員勤務時代の経歴
  • 駒澤大学の現役選手時の経歴
  • ヤクルト勤務・駒澤大学の指導者時代の経歴

と大八木弘明さんの若い頃について書きました。

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目次

大八木弘明の若い頃は?中学入学時は100㎏近くあった?

引用:https://takayuki-kato.com/hiroaki-ooyagi-profile-komazawa-university-director-of-the-relay-road-race/

大八木弘明さんですが、会津高田町立第一中学校(現、合津美里町立高田中学校)2年時に校内マラソンで優勝したのがきっかけで、陸上を本格的に始め中学3年時にはジュニアオリンピックの前身のジュニア選手権の3000mで9分09秒6で全国5位の成績を収めます。

大八木弘明さんは、中学入学当初は体重が100㎏近くあり、「ドラムカン」と言うあだ名でした。

若い頃の経歴は?高校時代は故障に苦しむ

先輩が合津工業高校から日本体育大学に進学し、箱根駅伝に出場してたので、福島県駅伝の強豪の合津工業高校に進学するも、高校1年時に走りすぎの故障の疲労骨折し、その後1年間はあまり走れず治ってからも中学時代の様な成績は残せませんでした。

さらに、貧血にも苦しんだ高校時代だったそうです。

大学進学は家庭の事情により一度諦めました。

大八木弘明の若い頃の経歴は?小森印刷に就職

合津工業高校卒業後に、地元福島の小森印刷(現、小森コーポレーション)に就職し、早朝や昼休みを利用し練習を続けました。

22歳の時に、1980年12月の第25回全日本実業団駅伝に出場し、エース区間で当時の最長の6区(23.2㎞)で区間3位を記録します。

憧れの箱根駅伝に出る為に、小森印刷は4年間勤務後に退職をしました。

第25回全日本実業団駅伝にて、旭化成の宗猛さんといい勝負が出来た事で自分に力がついて来た事を知り、中学時代からの夢の箱根駅伝を走るを叶えようと思ったそうです。

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大八木弘明の若い頃の経歴は?用務員をしながら駒澤大学に進学

引用:https://katatosi.com/oyagi-sincho-nensyu

川崎市役所に就職し市立小学校の用務員として勤務し、仕事しながら勉強して1人で練習の生活を2年間続けて、この間に東日本縦断駅伝で神奈川県チームのエースとして出場しています。

そして、24歳の1983年に駒澤大学2部に入学し、1年生から箱根駅伝に出場し、関東インカレ(2部)を始め、様々な大会で好成績を残しました。

用務員時代は小顔イケメンで話題

引用:https://number.bunshun.jp/articles/-/846552

大八木弘明さんは、1980年か1981年頃から川崎市立西丸子小学校に学校用務員として勤務されます。

若い頃の大八木弘明さんは、スラッと背が高く、かなり小顔だったので、小学校の女子生徒達は「今後来た用務員さんカッコいいよね」と来て早々に話題になってたそうです。

当時の大八木弘明さんは、黙々の作業をされる寡黙なタイプだったそうです。

放課後に勤務を終えると、若い頃の大八木弘明さんはランニングに短パンに着替え、リュックを背負い小学校から走って帰ってて誰もいなくなった放課後の校庭でダッシュやもも上げを繰り返していました。

川崎市の全小学校が参加する「連合運動会」にて、大会前に6年生の各クラスの選抜代表選手がリレー競技用に大八木弘明さんから直接指導を受けたそうで、その指導を受けた選手は元々速かったのにターボが掛かった様な速さになった選手もいたそうで、当時指導を受けた選手の中にはアスレチックトレーナーとして活躍してる人もいます。

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大八木弘明の若い頃は?箱根駅伝では2回区間賞

箱根駅伝での成績は

  • 第60回大会(1984年) 5区(20.7㎞) 1時間12分41秒 区間賞
  • 第61回大会(1985年) 2区(22.7㎞) 1時間11分43秒 区間5位
  • 第62回大会(1986年) 2区(22.7㎞) 1時間10分00秒 区間賞
  • 第63回大会(1987年) 年齢制限のため出場できず

1947年~1992年まで箱根駅伝の出場は28歳以下と言う年齢制限が設けられてた

第60回大会では、NHKラジオのアナウンサーが大八木弘明さんの名前を把握していないと言うハプニングが起きました。

第61回大会では、この時は貧血になっててベストな体調ではなかったそうです。

大学3年からは、チームの練習やメニューも大八木弘明さんが制作する様になり、監督からも信頼され、プレーイングコーチの様な役割をされていました。

第62回大会では駒澤大学の往路2位・総合4位と言う過去最高の成績を残しますが、大八木弘明さんが出場しなかった第63回大会では12位と言う結果に終わりました。

駒澤大学の現役時代の1日ルーティンは?

駒澤大学で選手をされた時は

  1. 7:00 起床し小学校の事務職員として勤務
  2. 昼休みは多摩川の土手を8㎞走る
  3. 夕方に仕事が終わり、グランドで1時間練習
  4. 18:30~21:30 駒澤大学で授業を受ける
  5. 24:00過ぎ 食事や洗濯などを終わらせてから就寝

と言うルーティーンで過ごされていました。

当時は、普段は陸上部の練習に参加する時間はなく、1人での練習は完全に任されてたそうで、週末や合宿がある時は駒澤大学陸上競技部のメンバーと練習していました。

大八木弘明さんは、この頃について「よく4年間続けられたと思う。もう一度やれと言われてもできない」とコメントされています。

大八木弘明の若い頃の経歴は?ヤクルト入社後、36歳で駒澤のコーチ就任

28歳で駒澤大学卒業後は、実業団チームのヤクルトに入社し、30代からはコーチ兼選手として活躍し、中距離ブロックコーチに就任されます。

1995年4月に36歳の時に駒澤大学陸上部から「母校を立て直してほしい」と頼まれ、始めはためらうも「母校に恩返しをしたい」と言う思いから駒澤大学陸上部のコーチに就任し、2002年4月に助監督に2004年4月に監督に就任されます。

大八木弘明さんが、就任前の1995年頃の駒澤大学は箱根駅伝で12~13位程の成績で停滞していましたが、2年後には復路優勝・総合6位まで躍進させ、現在の常勝軍団に代えました。

大八木弘明の若い頃の指導スタイルは?

現在の大八木弘明さんは、選手の意向を聞き、設定タイムも選手と話し合って決め、積極的に声を掛ける様にしてるそうです。

大八木弘明さんは、現在の指導法について「常に『なぜ』を考えさせながらやらせたいからね。選手が考えて納得しくれなかったら身につかないし、強くなれない」とコメントされています。

ただ、若い頃の大八木弘明さんの指導法は

  • 何でも自分が決めた事を選手に徹底させる
  • 「辞めちまえ」「馬鹿野郎」と選手を厳しくしかる
  • 若い頃の指導法について大八木弘明さんは「私の一方通行でした。厳しかったし、学生は私に何も言えなかったと思う」とコメント

と結構厳しい内容でした。

若い頃と現在の指導法の違いについて

そういうことも含め、時代が変わってきた。昔とは違い、しかったり、手を上げたりはできなくなった。話し合ってやらなくちゃ。自分から話を聞こうと。自分も変わらないと。そういう時代かなと少しずつ思いました

引用:https://www.nikkansports.com/m/sports/athletics/news/202212260000084_m.html?mode=all&utm_source=AMPbutton&utm_medium=referral

とコメントされています。

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